細川ガラシャの子孫は経歴が凄い!家系図やお墓の場所も徹底調査!

細川ガラシャとは明智光秀の三女として生まれ、父の為に悲劇の人生となったけれども、のちにクリスチャンとなり、歴史に残る最後を遂げた女性です。

その細川ガラシャの血を継いだ子孫たちがまた、後世に残る行いをしていました。現在でもその子孫は家柄、経歴や仕事などで有名です。

ここでは女性が自分からは何も出来そうにない時代に自分の意志を貫いた、美人で聡明な細川ガラシャの血統を継いでいる子孫やガラシャの人生、お墓の場所について調べてみました。

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細川ガラシャの子孫の経歴が凄い!

細川ガラシャの子孫には

①細川忠利

            参考元:Wikipedia

初代熊本藩藩主でガラシャの三男で細川家が大大名として残れるように貢献した人です。長男が関ヶ原の戦いで父忠興の怒りをかって廃嫡となり忠利が跡継ぎとなりました。

この忠利は幼少期病弱だったこともあり、ガラシャがキリスト教の洗礼を受けさせたと言われています。

②細川綱利

              参考元:Wikipedia

熊本第3代藩主です。忠臣蔵で知られている赤穂浪士を討ち入りのあと受け入れ、手厚くお世話をしたことで有名です。

赤穂浪士たちを処罰せず、細川家に仕えることができるように幕府にお願いしたり、切腹のときにも身分の上の人を介錯人にし、遺体も手厚く葬って最後の最後まで浪士たちを気遣った人として有名です。

③孝明天皇

             参考元:Wikipedia

ガラシャの生んだ長男忠隆は関ヶ原の戦いのときに父の反感をかい廃嫡となりましたが、その娘の徳が公家に嫁いだことから天皇家に細川ガラシャの血が流れる事となりました。孝明天皇の第一皇子の明治天皇も直系の子孫となります。

④政治評論家:細川隆元

⑤政治記者・評論家:細川隆一

最近の有名人で知られているのは細川ガラシャの長男忠隆の子孫、政治評論家の細川隆元氏とその甥の政治記者・評論家の故細川隆一郎さんです。

⑥細川珠生

細川隆一郎さんの娘になります。聖心女子大学外国語外国文学科卒、フリーのジャーナリストです。キリスト教カトリック教会の信者として洗礼を受けています。洗礼名はガラシャです。

元総理大臣の細川護熙さんが議員辞職の時に細川ガラシャの辞世の句を引用したとかで、子孫と勘違いしている人もいるかもしれませんが、親戚です。

細川護熙さんにはガラシャの血は流れていません。

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細川ガラシャプロフィール

氏名:細川ガラシャ(キリスト教洗礼名)もとは珠(子)もしくは玉(子)

生誕:1563年

死没:1600年8月25日

父親:明智光秀

夫 :細川忠興

戦国時代から安土桃山時代を生きた女性です。父親は有名な歴史上の人物、明智光秀(あけちみつひで)で、ガラシャは明智光秀の三女です。

そしてたぐいまれな美貌の持ち主で、夫細川忠興も美男なので美男美女の夫婦としても歴史に名を残しています。

ガラシャはキリスト教の信仰をもつまでは気位が高く、すぐ怒る性格のきつい女性だったようです。細川ガラシャを語る時に有名な話があります。ある時、細川ガラシャに見とれていた庭師を夫である忠興が斬ってしまったのだそうです!

そして忠興は庭師の首をガラシャに突き付け「お前は蛇のような女だ」とガラシャを責めたのですが、この時ガラシャは全く動じず、それどころか「鬼の女房にはふさわしいとお思いになりませんか」と切り返したそうです。

このエピソードからもその強烈さが伝わってきますね。

その壮烈な人生とは?

細川ガラシャ、まだ珠/玉(子)の名前で生活していた16歳の時、織田信長の命令で細川忠興(ほそかわただおき)と結婚します。

しかし結婚から数年で父親である明智光秀が本能寺の変を起こしたことによって山奥に幽閉されてしまいます。幸せな生活を送っていたのに、突然愛する夫やまだ小さい子どもとは別れ、身重の身で山奥に追いやられてしまったのです。

父である明智光秀が本能寺の変以降、次々と不幸が押し寄せたようです。

その後屋敷には戻れますが、山奥での生活や夫の嫉妬深さからくる扱いからか、キリスト教に惹かれていきます。

以前より山での生活中ガラシャの身の回りの世話をした、清原マリア(清原かよ)がクリスチャンであったり、高山右近との出会いによってキリスト教にふれていました。

不幸の中で「ほんとうに大切なものは何か」を考えたり、清原マリアの裏表のない考え方などに触れたりするうちに、その気高さに共感することで信仰心が芽生えたようです。

大阪の屋敷に帰った後、夫のいない隙に教会へ行き、さらにその後に夫には隠したまま洗礼を受けガラシャの名を受けたそうです。気性の激しいガラシャはクリスチャンとなってからは穏やかな女性へと変えられていったということです。

側室を5人も迎えた忠興とは離婚したかったのですが、キリストの教えを守り離婚はしませんでした。

最期は、1600年石田三成が細川の屋敷に乗り込み細川ガラシャを人質に取ろうとしますが、人質になるより自害するようにとの夫の言いつけを守りつつも信仰に背くことなく(キリスト教では自害は罪)家臣によって命をたちました。

その時に読まれた細川ガラシャの辞世の句はとても有名です。

 「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

解釈は「花は散る時期を知っているから美しい。私もそうありたい」と言う意味です。強い女性だったことがわかる辞世の句と言えますよね。

お墓の場所はどこ?

 お墓は細川家ゆかりの崇禅寺(そうぜんじ)にあります。大阪府東淀川区東中島5丁目27-44

阪急京都線千里線の崇禅寺駅から徒歩5分で行けます。

JR新大阪駅の東口から葉徒歩で10分です。

敷地が約16000平方メートルと結構広いので、行かれる場合は履きなれた歩きやすい靴で行くことをおすすめします。

まとめ

・息子は歴史に名を遺す善行を行っていた

・天皇家にもガラシャの血が流れている

・政治評論家やジャーナリストが子孫として活躍している

・元総理大臣の細川護熙にはガラシャの血は流れていない

・細川ガラシャは明智光秀の娘

・細川ガラシャのお墓は細川家ゆかりの大阪府東淀川区にある崇禅寺にある

細川ガラシャの子孫は良いことで名を遺していますね。アメリカでクリスチャンの家系を調べたところクリスチャンになった人から後の子孫は何かしら良いことを成し遂げていたという調査報告もあります。何か通じるものがあるのかもしれませんね。

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