ドラマ「トンイ」でトンイの子供、延礽君(ヨニングン)の利口さや性格の良さが際立って描かれています。この子供が第21代王と説明があったのでどんな王なのかと調べたら「イ・サン」のおじいさんだとわかりました。
イ・サンのおじいさんと言えば息子思悼世子を米びつ刑で殺してしまう英祖王です。トンイで描かれているかわいい延礽君とのギャップがありすぎます。
ここではドラマ「トンイ」から「イ・サン」の登場人物がどうつながるのかと、ドラマや映画の題材にもなっている米びつ刑のワケなど解説していきたいと思います。
トンイの産んだ子供は何人?
ドラマ「トンイ」の主人公・トンイのモデルになったのは粛宗の側室・淑嬪崔(スクピン・チェ)氏です。
このトンイと粛宗との間には3人子供ができました。
長男の永壽(ヨンス)についてドラマの中でも悲しい場面がありました。長男は生後2ヶ月で亡くなる・・・という悲劇に見舞われています。
母としての悲しみをトンイ役のハン・ヒョジュさんがよく演じていたのが印象的で愛しくてやまない存在を失った喪失感と苦しみと悲しみを超えた感情は死児を抱き呆然とどこかを見つめている様子でよく伝わってきます。
永壽については「もし彼が生きていたら」という設定で「テバク」というドラマもありますね。
長男・永壽、次男・英祖・・・そして三男は名前が分かりませんが早死にしたようですね。当時の乳児死亡率は現代とは比較にならないものだったのでしょう。
家系図から紐解く英祖王との繋がり!
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イ・サンの祖父英祖王はトンイの次男延礽君(英祖)です。
第19代王粛宗には3人の正室とトンイをはじめ複数の側室がいました。そしてその子供は男子だけで6人いました。
- 長男:景宗(母は禧嬪張氏)
- 次男:盛壽(1690年-1690年、母は禧嬪張氏)
- 三男:永壽(1693年-1693年、母は淑嬪崔氏)
- 四男:英祖(母は淑嬪崔氏)
- 五男:名前不詳(1698年-1698年、母は淑嬪崔氏)
- 六男:延齢君(母は䄙嬪朴氏)
引用元:wikipedia
長男、第20代王景宗は禧嬪張氏(チャンヒビン)の子供ですが子孫がなく、その時存命中の弟でトンイの子供が世弟となってあとを継いで第21代王英祖となります。
この英祖王の側室の息子が思悼世子で第22代王正祖(イ・サン)の父です。
息子を米びつの刑で処刑したワケとは?
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次男・思悼世子はどうして米びつの刑になり餓死させられてしまったのでしょうか。思悼世子は英祖の次男で兄は早死にしています。
米びつの刑で餓死とは・・・それだけでも恐ろしいのになぜよりによってわが子を?と思います。
彼の場合、英祖の在位が長くなるにつれて起こった宮中争いの標的にされたことが事の発端のようです。思悼世子は兄の長男が亡くなってまだ幼い時に世子として定められたようです。
英祖の正室・継室ともに「大君(テグン)」となる男子がいないため側室に生まれた男子を後継者にします。
利発な性質だったためか、まだ若い頃より政治的な決定代行権を与えられていたようです。それを面白く思わない人物がいます。
英祖の継室・貞純(チョンスン)王后です。
彼女には実子はなく側室の子どもが脚光を浴びる様子が面白くなかったのかは定かではありませんが、彼女が宮中の派閥争いを利用して思悼世子を陥れていったようですね。
とても怖いですね。
もちろんそういうことばかりではなく、父英祖王との関係でストレスがあり精神を病んでいるという思悼世子の正室、恵慶宮洪氏が随筆で記録しています。
これらのことから考えられる理由は
①親子関係のこじれ
②父英祖王の政策に反対している派閥闘争に利用された
この二つが主な理由のように推測されます。反抗的な子供に腹をたてた英祖王が一時の怒りで処刑してしまったのかもしれません。後にこれをひどく悔やんだといわれています。
そして追尊といって身分を回復させもともとは荘献世子という名前でしたが思悼世子という名前になりました。
米びつの中で8日間生きていたのですから、その間に考え直せば良かったのにとドラマ「イ・サン」を見ながら思いましたが、親子で意地を張りすぎたのでしょうか。
残念な事件です。
まとめ
・トンイの生んだ子供は3人です。※2人夭逝。
・イ・サン(世祖王)はトンイの子孫にあたります。
・成長した王子は国王となり英祖となる。
・思悼世子を親子関係、派閥闘争によって米びつ刑にしたと推測
トンイという人物についてはあまり記録がないようですが、この女性から王として様々な改革や民衆のためになる政策を行っていった王が英祖王、正祖王と二人も続いたことからトンイという人物の枠にとらわれない賢さがうかがわれます。