昭和の銀幕を彩り、後に冒険家としても異彩を放った和泉雅子さんが、2025年に77歳で静かにこの世を去りました。
その死因は「原発不明がん」。
生涯独身を貫いた彼女の人生には、多くの人が知らない選択と覚悟がありました。
この記事では――
- 和泉雅子さんの死因「原発不明がん」とは?
- なぜ彼女は結婚しなかったのか?
- 北極点到達にかけた挑戦と1億円の借金エピソード
- 士別でのログハウス生活とボランティア活動
- 結婚しなくても満たされた人生観
和泉雅子というひとりの女性が、自分の意志で選び抜いた人生を、事実に基づいて丁寧に振り返ります。
1. 和泉雅子の死因は原発不明ガン!生前葬でお別れ
引用元:NHK
1.1.和泉雅子 プロフィール(まとめ)
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 氏名 | 和泉 雅子(いずみ まさこ) |
| 生年月日 | 1947年7月31日 |
| 没年月日 | 2025年7月9日(77歳没) |
| 出身地 | 東京都中央区銀座 |
| 職業 | 女優・歌手・冒険家・真言宗僧侶 |
| 芸能活動期間 | 1958年〜2025年(67年にわたるキャリア) |
| 代表作 | 『非行少女』『絶唱』『男の紋章』シリーズ、『二人の銀座』(デュエット曲) |
| 冒険家としての偉業 | 1989年、徒歩で北極点到達(女性として世界2人目、日本人女性初) |
| 家族構成 | 両親・弟(一般人) |
| 結婚歴 | 生涯未婚 |
| 備考 | 1998年から北海道士別でログハウス生活、地域ボランティア活動を展開 |
昭和の映画ファンならずとも、その名を一度は耳にしたことがあるはず。
女優として一世を風靡し、後には冒険家としても数々の偉業を成し遂げた和泉雅子さんが、2025年7月9日、自宅で静かに息を引き取りました。
亡くなった場所は東京都内のご自宅。
入院と退院を経て、最期は慣れ親しんだ場所で過ごすことを選んだそうです。
そして、本人の希望により、葬儀や告別式といった一連の儀式は行われていません。
最後まで「人に迷惑をかけたくない」という気持ちを持っていたという彼女。
その生き方と同じく、最期の瞬間もとても静かで穏やかなものでした。
1-2. 死因は「原発不明がん」—その正体と特徴
「原発不明がん」って、ちょっと聞き慣れない病名かもしれませんが、実はとても厄介ながんなのです。
和泉雅子さんの死因はこの「原発不明がん」。
これは、がんがすでに体内に広がっているにもかかわらず、そもそも最初に発生した場所(原発巣)がわからない、というもの。
なんともミステリアスで、そして進行も早いタイプのがんです。
体のどこかで始まったはずなのに、その場所が特定できないまま、症状が進行してしまうケースが多いんですね。
そのため、適切な治療を選ぶのも非常に難しく、治療のタイミングが遅れたり、対処療法が中心になったりします。
高齢者に多く見られるというのも特徴のひとつ。
和泉さんも、2024年の5月頃に体調を崩し、その後入退院を繰り返していたそうです。
そして、最期の数ヶ月は自宅で療養。
病と静かに向き合いながら、彼女らしい時間を過ごされていたようです。
1-2. 最後の日々と「生前葬」という選択
驚かれる方も多いかもしれませんが、和泉雅子さんは「生前葬」をすでに済ませていたんです。
これは、元気なうちに自分で自分の葬儀をプロデュースするというもので、近年、芸能人や著名人の間でも選ばれる方が増えてきていますよね。
和泉さんの場合も、自分の人生にきっちりとけじめをつける、そんな思いがあったのでしょう。
親族や関係者によると、告別式やお別れの会は一切行わない、というのも彼女自身の強い意志だったそうです。
派手なことは好まない、でもその代わりに、思い出の中で生き続けたい。
そんなメッセージが伝わってくるような選択ですよね。
最期まで自分らしく、自立を貫いたその姿勢は、まさに和泉雅子そのもの。
晩年も北海道・士別のログハウスで地域貢献を続けるなど、静かで芯のある生き方を体現していました。
2. 和泉雅子はなぜ結婚をしなかったのか?
引用元:Wikipedia
「結婚しなかった」というと、どうしても“寂しかったの?”とか“後悔はなかったの?”なんて想像してしまいがちですが、和泉雅子さんの場合、その答えはとても明確でした。
結論から言うと、和泉雅子さんには結婚歴が一度もありません。
もちろん子供もいませんでしたし、週刊誌を賑わせるような熱愛報道もほとんど見かけなかったんですよね。
女優としての輝かしいキャリア、そして北極点を目指した冒険家としての命懸けの挑戦。
そのどちらもが、彼女にとって“人生のパートナー”だったのかもしれません。
2-1. 正式な結婚歴なし!噂すらなかった恋愛事情
芸能人としては異例の静けさ。
なぜかというと、もともととてもプライベートを大切にしていた人だったんですよね。
SNSもやらず、バラエティ番組で私生活を語るようなタイプでもなく。
完全に“仕事は仕事、人生は人生”と割り切るプロフェッショナルな生き方を貫いていました。
そして、本人も冗談交じりに「昔はきれいだったってよく言われる」と笑っていたことも。
そうやって外見の変化すら受け入れてしまう潔さも、彼女らしいところですよね。
2-2. 母親との密な関係とプライベートの制限
10歳で芸能界入りした和泉雅子さん。
子役からスタートし、14歳で日活に所属、吉永小百合・松原智恵子と並んで“日活三人娘”として脚光を浴びました。
その間、ずっとそばにいたのが彼女のお母さん。
当時はスマホもなければLINEもない時代。
共演者と連絡先を交換するなんて、まず不可能。
ましてや、母親が常に側にいれば、自由な時間も恋愛もなかなか生まれませんよね。
そんな環境で育ってきた彼女にとって、恋愛や結婚はどこか遠い存在だったのかもしれません。
2-3. 「結婚より冒険」人生を変えた北極点への挑戦
38歳のとき、和泉雅子さんは人生の方向をガラリと変える決断をします。
それが「北極点に到達したい」という夢。
最初の挑戦は1985年、そして再挑戦で成功したのが1989年、42歳のときのことでした。
この挑戦、ただの観光旅行ではありません。
極寒の氷原を1700kmもソリを引いて進み、1億円以上の費用を借金でまかない、命の危険と戦いながら達成したというもの。
しかも、その借金もわずか4年で完済したというのだから驚きです。
恋愛や家庭という“定番の幸せ”よりも、自分の意思で未来を切り開くことを選んだ和泉さん。
その姿は、今の時代にこそ響く「人生のロールモデル」なのかもしれませんね。
3. 和泉雅子の結婚観とは?冒険家の心にあった想い
引用元:読売新聞
女優として名を馳せた後、北極という極限の地に魅了され、冒険家として生きる道を選んだ和泉雅子さん。
その人生には、結婚という“常識的な幸せの形”が存在しませんでした。
では、彼女は結婚をどう捉えていたのでしょうか?
当時、女優が結婚するとキャリアにブレーキがかかるとされていた時代。
恋愛も自由にはできない、そんな空気の中で育ち、母親と常に行動を共にしていた彼女には、そもそも恋愛を育む土壌がなかったのかもしれません。
それでも彼女は、不自由や犠牲を嘆くことはありませんでした。
むしろ「結婚してないことが不幸」という考え方を、笑い飛ばしていたのです。
まるでそれが、自分の選んだ“冒険”のひとつだとでも言うように。
3-1. 自ら語った「昔は綺麗だった」発言の真意
でも、和泉雅子さんはそれを「美しさを失った」とは思っていなかったのです。
あるテレビ番組で、彼女は「昔はきれいだったって、今は別人みたいだって言われるんですよ」と笑いながら語っていました。
それは自虐でも、卑屈でもなく、あくまで“自分の人生を笑って肯定する”言葉でした。
彼女にとって美しさとは、見た目の話ではなかったのでしょう。
雪原を越え、借金を背負い、名誉や損得を超えた「到達したい」という衝動。
そんな“生き様の美しさ”こそが、本当の意味での誇りだったはずです。
3-2. 過酷な極地と対峙した美しき孤独
徒歩で到達した女性は世界で2人目、日本人女性では初。
その記録だけ見ても、とんでもない偉業です。
特に注目したいのは、氷の上を1700kmも進むという異常な距離と、1億円以上の資金を自ら調達し、わずか4年で返済したという事実。
これはもう「並大抵の精神力」ではありません。
孤独な挑戦の連続。
命を賭けてでも、自分の足で“てっぺん”に立ちたい。
その衝動こそが、彼女にとっての“愛”であり、人生を共にする“パートナー”のような存在だったのではないでしょうか。
4. 和泉雅子に家族はいた?弟や両親との関係
その華やかな表舞台の裏で、彼女を支えていた家族については、あまり多くが語られていません。
ただ、彼女には弟がいるという情報が残されています。
しかし、その人物に関する具体的なエピソードや顔写真などは一切出回っておらず、まさに“ベールに包まれた存在”といえます。
芸能一家であるわけでもなく、彼女自身も家族を売りにするようなタイプではなかったことから、意図的に私生活を守り抜いてきたことがうかがえます。
4-1. 弟の存在とベールに包まれた家族構成
和泉雅子さんの出身は、東京都銀座。
家系としては、江戸時代に幕府御用達の家具商を務めた由緒ある家柄で、戦国武将・竹中半兵衛の末裔でもあると伝えられています。
そんな家族の中で、彼女は“和泉家の看板”を背負って芸能界を歩き、さらに未知の極地へと挑みました。
弟についての情報はほとんど公表されていませんが、おそらく彼女の意思を尊重し、ひっそりと支えていたのだと考えられます。
4-2. 家族を表に出さなかったその理由とは
なぜ、和泉雅子さんは家族をあまり公にしなかったのでしょうか。
ひとつ言えるのは、彼女自身が「自分の人生は自分で切り拓く」という価値観の持ち主だったということです。
母親は26歳まで付き人として付き添い、芸能活動を全面的に支えてくれていました。
その反動もあってか、以降の人生では“人に頼らない生き方”を選んでいたようにも感じられます。
また、極端にプライバシーを大切にする人でもありました。
北海道の広大な土地にログハウスを建て、都会を離れて暮らすスタイルも、「静かに暮らしたい」という気持ちの表れだったのかもしれません。
弟や親族についてはほとんど語られなかったけれど、だからこそ、和泉雅子さんの“個”としての魅力が際立っていたのだと思います。
自分だけの人生、自分だけの哲学。その軸を大切に生き抜いた姿が、今なお人の心に残っています。
5. 和泉雅子の第二の人生—女優から冒険家
和泉雅子さんの人生は、ただの“女優の延長”では語れません。昭和を彩った銀幕のスターは、突如「地球のてっぺんに立ちたい」と言い出し、北極を目指す冒険家へと変貌を遂げました。
多くの人が引退後に悠々自適を選ぶ中で、彼女は「極限」に挑んだのです。
そしてそれは、話題づくりでもロマンでもなく、命を賭けた“第二の人生”でした。
演技の道から、自然と命のリアルが交差する世界へ。
和泉雅子の歩んだ人生には、誰にも真似できない濃さがありました。
5-1. 北極点到達と1億円の借金、4年で完済の伝説
和泉雅子さんの冒険家としての代表的な偉業は、なんといっても1989年の北極点到達です。
しかも徒歩で、ですよ。
これは世界で2人目、女性では史上初という驚くべき記録です。
彼女はその経験を糧に再挑戦し、見事に成功したのです。
そしてこの遠征、ロマンチックな響きとは裏腹に、費用は1億円超え。
しかもその資金は、スポンサー頼みではなく、なんと自身が借金して用意したというのだから驚きです。
テレビ出演、講演、執筆などを通じて地道に返していったとのこと。
情熱に突き動かされた行動力と、それをきちんとやり切る責任感。
どちらも揃っていなければ到底成し得なかったことでしょう。
5-2. 士別のログハウスでのボランティア活動
1998年、彼女はそこで「マークン山荘」と名付けられたログハウスを建てました。
敷地は4000坪、建物は75坪。
見晴らしは180度オーシャンビューという、まさに自然と一体になれる空間です。
でもこのログハウス、ただの別荘ではありませんでした。
地元の子どもたちを集めた「寒いのへっちゃら隊」というイベントを実施し、冬でも外で元気に遊べるような活動を展開。
食事の提供や自然体験を通じて、地域社会と関わり続けたのです。
冒険家としての実績だけでなく、そこから生まれる“知恵”や“経験”を誰かに還元していく。
その姿勢にも、彼女の人間味がにじんでいました。
5-3. 極地の女王が遺した“人間力”とは
北極を制した彼女を、人は「極地の女王」と呼びました。
でもその実態は、称号よりももっと静かで、深くて、等身大な“人間力”に満ちていたのです。
外見が変わっても笑って受け止める素直さ。
夢に全力で飛び込み、逃げずに責任を果たす誠実さ。
何かを成し遂げたから誇るのではなく、自分の道を自分で選んだことに意味を見出す強さ。
それらすべてが和泉雅子という人物の“根”をつくっていました。
演じる女優から、生きる表現者へ。
その軌跡は、芸能界という枠を超えて、ひとりの人間として深い尊敬を集めるに足るものでした。
6. 和泉雅子は幸せだったのか?独身でも満たされた人生の理由
「結婚してないって、なんだか不幸に見えるよね」。
世の中には、そんな空気感がどこかに残っています。
でも、和泉雅子さんの人生を見ていると、その固定観念はあまりにも浅いことに気づかされます。
たしかに、和泉さんには結婚歴がありません。
恋愛や家庭を語るエピソードも、ほとんど表には出てきませんでした。
でも彼女の人生は、その“空白”を埋めてあまりあるほどの濃さと、深みであふれていたのです。
自分の足で世界の果てを目指し、人と比べるのではなく、自分の中の“答え”を信じて生きる。
そういう強さが、日常の一コマ一コマににじんでいました。
6-1. 結婚=幸せではない生き方のロールモデル
和泉雅子さんは、「結婚しなかった」ことを決して避けて語ることはありませんでした。
むしろ、笑い話にするほど自然体でした。
若い頃は、もちろん恋愛や結婚への憧れもあったでしょう。
でも、冒険家としての道を歩みはじめた瞬間から、「自分にとって本当に必要なのは何か」という問いが、日々の判断基準になっていたはずです。
恋愛よりも極地。
家庭よりも挑戦。
誰かの奥さんになることよりも、自分の人生の舵を握ること。
それが、彼女にとっての“幸せの定義”でした。
現代に生きる私たちにとって、これはまさに“ロールモデル”のような姿です。
多様な幸せのかたちを選んでもいい。
そんなメッセージが、彼女の生き様そのものから伝わってきます。
6-2. 挑戦を愛した彼女が遺した「生き方の自由」
結婚していない。
家族を公にしない。
芸能界の表舞台から消えたかと思えば、北極に挑み、借金までして夢を叶える。
そして最後は、自宅で静かに旅立ち、葬儀も辞退。
そのどれもが、“和泉雅子らしい”選択でした。
そしてそこには一貫して、「誰にも支配されずに生きる」という強烈な意志がありました。
自由には覚悟がいるけれど、彼女はその覚悟を背負って生き切った人です。
誰かに認められなくてもいい。
結婚していなくてもいい。
大事なのは、自分が納得できるかどうか。
和泉雅子さんの人生は、そんな「生き方の自由」を見せてくれる、まさに宝石のような時間の積み重ねでした。


