日本サッカー史に名を刻むレジェンド、釜本邦茂さんが2025年8月10日、肺炎のため81歳で逝去しました。
得点王7回、日本サッカーリーグ通算202得点という偉業を残し、1968年メキシコ五輪では銅メダルと得点王を獲得。
輝かしい経歴の裏には、長年の闘病や家族との強い絆がありました。
この記事では、
- 釜本邦茂さんの死因と最期の様子
- 少年時代から日本代表、そして引退後までの経歴
- プロフィールや受賞歴、殿堂入りの経緯
- 妻や娘、孫との心温まるエピソード
をまとめています。
ピッチでの圧倒的な存在感と、家庭人としての一面。
その両方から、釜本邦茂さんという人物像を立体的に描きます。
1 釜本邦茂の死因と最期の様子
引用元:Yahoo!ニュース
1-1 2025年8月10日、肺炎での逝去
日本サッカー界において「伝説」と呼ばれる人物の最期は、静かで穏やかなものでした。
サッカーファンだけでなく、幅広い世代がその訃報に胸を痛めました。
1-2 闘病の経緯と健康状態の変化
体調を崩したのは2023年9月頃。
誤嚥性肺炎で入院し、長期療養に入ります。
2024年秋には手術を受けて一度は回復しましたが、2025年6月中旬に再び容体が悪化。
外出も極力控え、家族だけがそばで見守る日々が続きました。
アスリートとしての強靭さを持ちながらも、高齢と闘病の長さには勝てなかったのです。
1-3 咽頭ガンとの過去の戦い
実は2014年春、70歳のときにも大きな病を経験しています。
きっかけは孫娘から「声がおかしい」と指摘されたことでした。
放射線治療を受け、命をつないだあのときも、支えてくれたのは家族でした。
病気を克服し、再び人前に姿を見せたときの笑顔は、今でも多くの人の記憶に残っています。
2 釜本邦茂の経歴と輝かしいサッカー人生
引用元:日刊スポーツ
2-1 京都・太秦で育った少年時代
太秦小学校、蜂ヶ岡中学校、山城高校と進み、地元京都でサッカーに打ち込みます。
背が高く、体格にも恵まれていましたが、当時から抜群の得点感覚を持っていました。
2-2 早稲田大学からヤンマーディーゼルへ
大学は早稲田大学第二商学部へ進学。
全国から才能が集まる中でも、釜本さんの得点力は群を抜いていました。
卒業後はヤンマーディーゼル(現・セレッソ大阪)に入団し、1967年から1984年までプレー。
17年という長い現役生活で、まさにチームの顔として君臨しました。
2-3 1968年メキシコ五輪の衝撃と得点王伝説
1968年、メキシコシティオリンピックに日本代表として出場。
ここで歴史的な快挙を成し遂げます。
アジア人として五輪得点王に輝くのは史上初で、右斜め45度からの右足シュートは「世界最高クラス」とまで評されました。
2-4 日本サッカーリーグ歴代最多202得点の軌跡
これは今なお破られていない歴代最多記録です。
得点王7回、アシスト王3回、日本年間最優秀選手賞7回と、タイトルの数も圧倒的でした。
まさに「点取り屋」という言葉を体現した存在です。
2-5 引退後の監督・国会議員としての挑戦
2009年には藤枝MYFCの監督も務め、指導者としての道も歩みました。
現役時代から、その存在は数字以上のインパクトを与えてきました。
単なる「点取り屋」ではなく、チームを勝利に導く象徴的な選手だったのです。
引退後も、監督や政治家として人々の前に立ち続け、日本サッカーの発展に尽力しました。
3 釜本邦茂のプロフィール
引用元:日刊ゲンダイ
3-1. 釜本邦茂(かまもと くにしげ)プロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年月日 | 1944年4月15日 |
| 出身地 | 京都府京都市右京区太秦 |
| 没年月日 | 2025年8月10日(81歳没) |
| 身長 / 体重 | 179cm / 79kg |
| ポジション | フォワード(CF) |
| 利き足 | 右足 |
| 所属クラブ | ヤンマーディーゼル(1967–1984) |
| 日本代表歴 | 国際Aマッチ76試合75得点(男子単独最多) |
| 主な受賞歴 | 得点王7回、アシスト王3回、日本年間最優秀選手賞7回 |
| 代表的な功績 | 1968年メキシコ五輪得点王・銅メダル、日本サッカーリーグ通算202得点 |
| 殿堂入り | 2005年第1回日本サッカー殿堂 |
| その他経歴 | ヤンマーディーゼル選手兼監督、ガンバ大阪監督、参議院議員(1995–2001)、JFA副会長・顧問 |
京都の太秦で生まれ育ち、早くから体格と運動神経に恵まれていました。
高校時代から全国にその名を知られ、早稲田大学を経てヤンマーディーゼルに加入。
背番号とともにクラブの象徴的存在となり、日本代表でも圧倒的な決定力を誇りました。
3-2 主な受賞歴と殿堂入りの経緯
キャリアを振り返ると、数字の並びがとにかく眩しい存在です。
日本サッカーリーグでの得点王7回、アシスト王3回、日本年間最優秀選手賞7回という記録は、後進にとって大きな壁になっています。
これらの栄誉は、単なる得点力だけでなく、試合を支配する存在感やリーダーシップが評価された結果でもあります。
3-3 現役時代に愛された“右45度の必殺シュート”
釜本さんの代名詞といえば、右斜め45度から放つ右足シュート。
体の軸がぶれないフォームから放たれるボールは、GKが動くよりも早くゴールネットを揺らすと評されました。
この武器を武装したフォワードは、日本のみならず世界の舞台でも通用し、1968年メキシコ五輪での得点王獲得にもつながりました。
多くのファンが「あの角度からなら外さない」と信じて見ていた、まさに必殺技でした。
4 釜本邦茂の家族とプライベートエピソード
引用元:日刊ゲンダイ
4-1 妻・修子さんとの深い絆
公私ともに欠かせない存在だったのが、妻の修子さんです。
釜本さん自身が「妻なしでは生活できない」と語るほど、生活面を支えてくれました。
ガンバ大阪の監督時代には、チーム成績や選手とのやり取りで心労が重なった時期もありましたが、それでも傍で支え続けた存在です。
釜本さんは常に「修子には感謝しかない」と口にしていました。
4-2 娘2人と孫たちの存在
息子はいませんが、2人の娘からは孫が生まれ、少なくとも2人の孫娘が成長を見せてくれました。
晩年の楽しみは、友人との会話と、この孫たちの成長を見守ること。
家庭での穏やかな笑顔は、ピッチ上での勝負師の顔とはまるで別人のようでした。
4-3 家事ゼロでも愛された家庭人としての素顔
釜本さんは家事がまったくできず、本人もそれを隠しませんでした。
それでも家族に愛され続けたのは、人懐っこい性格とユーモア、そして家族を大切にする心があったからでしょう。
家庭では気取らず、試合での厳しい表情とは正反対の穏やかさを見せていました。
5 釜本邦茂を語る上で欠かせない魅力
引用元:NEWSポストセブン
5-1 世界レベルの決定力を支えた精神力
その中で釜本邦茂さんは、国際大会でも物おじせず、むしろ大舞台ほど力を発揮しました。
メキシコ五輪での7得点や、日本サッカーリーグ通算202得点という記録の裏側には、練習への異常なまでの執念があります。
シュート練習では、納得のいくフォームと軌道が出るまで何十本も打ち続け、徹底的に自分の武器を磨き上げました。
決定力は才能だけではなく、勝負への強い気持ちと妥協を許さない姿勢で支えられていたのです。
5-2 社交的ではないが人に愛された理由
自らを「人見知り」と語り、プライベートでは静かな時間を好んでいたほどです。
試合後の控室でのさりげない気遣い、仲間や後輩への短いけれど温かい言葉。
監督や政治家として活動したときも、その誠実さと真っ直ぐさが人を惹きつけた要因でしょう。
5-3 彼が日本サッカーに残した“熱”
釜本さんの存在が、日本サッカー界に与えた影響は数字以上のものです。
1968年のメキシコ五輪銅メダルは、後のJリーグ創設や日本代表強化の流れに間違いなく影響を与えました。
その“熱”は、今も若い選手たちの挑戦心に受け継がれています。
6 考察:釜本邦茂が今も心を動かす理由
引用元:スポニチ
6-1 サッカー界におけるレジェンド像の原点
それは単なる記録保持者だからではなく、当時の日本サッカーの限界を押し広げた存在だったからです。
レジェンドという言葉は簡単に使われがちですが、釜本さんの場合、それは日本の可能性を切り拓いた“象徴”という意味を持ちます。
6-2 現代サッカー選手への影響と比較
身体能力や技術だけでなく、国際舞台でのメンタルの強さ、勝負に挑む胆力は、現代のトップ選手たちにも通じます。
むしろ、当時の環境を考えれば、その挑戦は今以上に困難だったとも言えるでしょう。
6-3 人間味あるヒーロー像としての価値
試合では鬼のような集中力を見せる一方、家庭では家事がほとんどできない不器用な夫であり、孫の成長に目を細めるおじいちゃんでもありました。
そのギャップこそ、多くの人に愛され続ける理由です。
釜本邦茂という名前は、ただの偉大なサッカー選手の枠を超え、“人間味のあるヒーロー”として語り継がれていくことでしょう。





