橋本友彦の死因は肝臓がん!wiki経歴・戦績・プロレス人生まとめ

当ページのリンクには広告が含まれています。
スポンサーリンク

突然の訃報に、多くのファンが言葉を失いました。

橋本友彦さんが47歳という若さで亡くなったこと、そしてその死因が肝臓がんによるものだったと報じられ、衝撃が広がっています。

彼の歩んだリング人生と、その裏にあった信念は、まさに“プロレスに生きた男”の証でした。

本記事では、

  • 橋本友彦さんの死因に至るまでの詳細な闘病経緯
  • プロレスラー・格闘家としてのwiki経歴や戦績
  • ファンや関係者の追悼の声、残されたプロレス哲学

といった内容を、分かりやすくお届けします。

橋本友彦という人物が何を遺し、なぜこれほどまでに愛されたのか。

その答えを、死因やwiki経歴とともに丁寧にたどっていきます。

目次
スポンサーリンク

1. 橋本友彦の死因は肝臓がん!闘病中もリングに

引用元:バトルNEWS

2025年8月5日午前7時55分。

プロレス界に激震が走りました。

橋本友彦さん、享年47。

彼の死因は肝臓がん。しかも、再発によるものでした。

最初に体調の異変が現れたのは2024年2月のこと。

病院での精密検査の結果、肝臓がんのステージ2と診断されます。

治療にはラジオ波焼灼術を選び、一時的にがんは姿を消しました。

…が、それはほんのつかの間の休戦。

2025年5月。

定期検査でがんの再発が判明します。

しかも、今度は肝臓の難しい部位。

主治医からは、西洋医学での完治は難しいと告げられました。

そこから、橋本さんは東洋医学、湯治、食事療法など、あらゆる手段を模索しながら闘いを続けたのです。

病と闘いながらもリングに立ち続けるその姿勢は、まさにレスラー魂そのものでした。

1-1. 再発を乗り越えようとした“復活の意志”

がんが再発したあとも、橋本さんの目にはまだ“希望”が残っていました。

西洋医学では厳しいとわかっていても、「まだ戦える。自分にしかできないプロレスがある」と信じ、6月22日にはA-TEAM千葉大会に強行出場。

肝臓がんの再発を隠すことなく、それでも「復活を信じてる」と公言し、リングに立つその姿に、多くのファンや仲間が胸を熱くしました。

「もう一度リングに戻る」という気持ちが、最後まで彼を突き動かしていたことは間違いありません。

1-2. ラストマッチで語った言葉と仲間たちの声援

最後のリングとなった6月22日。

この日、A-TEAMの千葉大会には、橋本さんの盟友や後輩たちが全国から集まりました。

高木三四郎、KUDO、柿本大地、風香、小幡優作、大家健、我龍真吾…。

さらには飯伏幸太、ザ・グレート・サスケ、赤井英和らからビデオメッセージも。

その中で橋本さんが語ったのが、こんな言葉です。

「できないってわかってるんですけど、モチベーションを下げたくないんで…復活するんだって気持ちで、こういう形でやらせてもらいました」

声を詰まらせながらも、最後まで“戦う自分”を貫いたその言葉は、リングにいた誰の胸にも深く刺さりました。

1-3. 命のリミットを知りながらリングに立った理由

普通なら病床に伏すタイミングで、橋本さんはスケジュールを押さえ、仲間を集め、自らを主役にしたリングを作りました。

しかもそのリングには、かつての戦友である石川修司、MIKAMI、タノムサク鳥羽、柴田正人らも友情参戦。

その場にいた誰もが、「これは最後かもしれない」とわかっていたはず。

でも、橋本さんはそんな空気を吹き飛ばすかのようにリングに立ち、叫び、闘い、笑っていました。

命のリミットを知った上で、それでも彼がリングに立ったのは、きっとプロレスが彼の生きる意味だったから。

そして、最後の瞬間まで「プロレスラー・橋本友彦」でありたかったのだと思います。

1-4.橋本友彦プロフィール

項目内容
名前橋本 友彦(はしもと ともひこ)
本名同上
生年月日1977年8月16日
没年月日2025年8月5日(享年47)
出身地奈良県奈良市
身長 / 体重183cm / 140kg
スポーツ歴柔道(三段、15年)
トレーナー木村浩一郎
同級生佐藤耕平(大東文化大学)
プロレスデビュー2000年4月14日(JPWA)
所属団体(歴)– JPWA
– DDTプロレスリング(2002〜2006)
– TEAM MAKEHEN(代表)
– アパッチプロレス軍
– プロレスリングA-TEAM(設立・代表)
主な育成選手紫雷イオ(現・イヨ・スカイ)、紫雷美央、拳剛(旧・西村賢吾)
総合格闘技戦績5戦1勝4敗(うち1勝は2006年6月11日 ジャイロ・クスノキ戦でKO勝利)
主な対戦相手(MMA)アリスター・オーフレイム、謙吾、ジャイアント落合 など
代表技– XCT(変形裏投げ式チョークスラム)
– ひとり眉山(二段ジャーマン)
– 84クランチ(変形テキサスクローバー)
獲得タイトル– KO-Dタッグ王座(DDT)
– WEWヘビー級王座
– WEWタッグ王座
– NWAインターコンチネンタルタッグ王座(ZERO1)
– UWAインターコンチネンタルタッグ王座
– DEP無差別級王座
死因肝臓がん(2024年9月にステージIIと診断、2025年5月に再発)
最終試合2025年6月22日 A-TEAM千葉大会
死去日時2025年8月5日 午前7時55分
スポンサーリンク

2. 橋本友彦のプロレス人生まとめ|デビューから団体設立まで

橋本友彦さんのキャリアは、いわゆる“メジャー街道”とはちょっと違うルートを歩いています。

でも、だからこそ「インディープロレス最後の大物」と呼ばれ、熱狂的なファンを持ち続けたのです。

プロレスラーとしてのデビューは2000年、木村浩一郎さん率いるJPWA(日本プロ・レスリング協会)から。

その後、DDT、TEAM MAKEHEN、アパッチプロレス軍、そして自身の団体A-TEAMまで。

まさに、インディー界を渡り歩いた波乱万丈のレスラー人生でした。

2-1. JPWAでのデビューとDDT時代の活躍

2000年4月14日、後楽園ホールで華々しくデビュー。

当時の橋本さんは183cm、140kgの巨体を武器に、ゴツゴツした正統派のファイトスタイルで注目を集めました。

2002年にDDTへ入団すると、高木三四郎や諸橋晴也とのタッグでKO-Dタッグ王座を獲得。

また、パンクラスやPRIDE系のMMA大会にも出場し、格闘家としても存在感を見せました。

DDT退団後はより自由に、より自分らしいプロレスを追い求めることになります。

2-2. 紫雷イオを育てた「TEAM MAKEHEN」の存在

2006年、橋本さんはフリーランスのプロレス団体「TEAM MAKEHEN(チーム・マケヘン)」を立ち上げます。

ここでプロレス界に送り出されたのが、あの紫雷イオ(現・イヨ・スカイ)、紫雷美央、西村賢吾(現・拳剛)といった逸材たち。

橋本さんは自分の名を売るよりも、人を育てることに情熱を注いでいました。

リングの上でも、裏方としても、プロレスに本気で愛を注いだ証しです。

“見つけて、育てて、送り出す”という立場で残した功績は、今なお語り継がれています。

2-3. A-TEAM設立と“最後の団体代表”としての歩み

アパッチプロレス軍が2016年に解散すると、橋本さんはその後継として「プロレスリングA-TEAM」を設立。

2017年2月に旗揚げを果たし、自らが代表兼選手として団体を支え続けてきました。

A-TEAMは小規模ながらも、選手一人ひとりの熱量が高く、橋本さんの“熱”がそのまま団体の魂になっていた印象があります。

「自分の手でリングを作る」「仲間と一緒にプロレスを届ける」——橋本友彦という男は、最後の最後まで、プロレスに命を捧げた人でした。

スポンサーリンク

3. 橋本友彦の格闘技戦績と名物フィニッシュ技紹介!

引用元:https://proresu-today.com

プロレスラーでありながら、総合格闘技の世界にも足を踏み入れた橋本友彦さん。

パワーファイターという枠を超えた挑戦者の一面が、ここにあります。

総合の試合では厳しい結果が続きましたが、それもまた橋本さんらしさ。

華やかさより“本気”で闘う男だったことが、戦績からも伝わってきます。

そして、もうひとつ外せないのが彼の代名詞的なフィニッシュ技の数々。

どれも個性的で、見る者の記憶にしっかりと刻まれるインパクトがありました。

3-1. 総合格闘家としての5戦1勝4敗の記録

橋本さんは2002年から2006年にかけて、全5戦の総合格闘技マッチに出場しています。

初戦は2002年5月、パンクラスで謙吾選手と対戦し、パウンドによるTKO負け。

そこからPRIDEの登竜門大会「THE BEST」ではジャイアント落合選手に右フックでKOされ、さらに「INOKI BOM-BA-YE 2003」ではアリスター・オーフレイム選手に左膝蹴りで撃沈。

それでも挑戦をやめなかった橋本さん。

2006年6月、「W-Capsule Vol.2」でついにジャイロ・クスノキ選手をマウントパンチでKOし、悲願の初勝利を手にします。

1勝4敗の記録。でもその裏には、恐れずに挑み続けたタフネスと、勝ち負けだけじゃない“闘う意味”が確かにありました。

3-2. XCT・ひとり眉山・84クランチとは?

橋本友彦さんといえば、ド派手なフィニッシュ技の印象も強烈でした。

まず代表的なのが「XCT」。

正式名称は“Xtreme Crusher Tomohiko”。

相手の腰をがっちり抱え上げて振り回す、変形の裏投げ式チョークスラムです。

重量級の彼だからこそ成し得た、説得力抜群の大技。

続いて「ひとり眉山」。通常“眉山”は2人がかりで決めるツープラトン技なんですが、これを1人でやっちゃうという驚異のパワー系技。

相手2人をまとめてジャーマンでぶっ飛ばすその姿は、まさに怪物。

さらに「84クランチ(読み:はしクランチ)」も忘れちゃいけません。

変形テキサスクローバーホールドで、立ったまま相手の脚をがっちり極めにいくスタイル。

重心が高いぶん、ダメージも倍増。地味だけど、効くんです。

それぞれの技には、橋本さんの個性とこだわりがギュッと詰まっていました。

3-3. アリスター・オーフレイムとの対戦エピソード

2003年12月31日、大晦日の格闘技イベント「INOKI BOM-BA-YE 2003」。

この大会で、橋本さんは後の世界的MMAスター、アリスター・オーフレイム選手と対戦しています。

結果は1ラウンド36秒、左膝蹴りによるTKO負け。

でも、その一戦には「逃げずにぶつかる橋本友彦」のすべてが詰まっていました。

相手が誰であろうと、ビビることなくゴングを聞いて前に出る。

それが橋本さんのスタイル。

自分よりも遥かに実績のある相手でも、やると決めたらやる。

格好良さって、勝ち負けじゃないんですよね。

スポンサーリンク

4. 橋本友彦の人柄や信念に触れる|仲間に愛された理由

ただ強いだけじゃない。橋本友彦さんがこれほどまでに慕われたのは、彼の人柄とまっすぐな生き様にあったと思います。

どんな状況でもプロレスを信じ、仲間を信じ、最後まで“希望を背負う男”であり続けた。

その背中に憧れたレスラーは少なくありません。

4-1. 柔道三段、格闘家としての根っこの強さ

実は橋本さん、プロレスに入る前は柔道一筋15年。

三段の腕前を持ち、体の芯には“本物の格闘魂”が通っていました。

だからこそ、どんなに打たれても、投げられても、心が折れなかった。

あの巨体を支えていたのは筋肉よりも、もっと深いところにあった“武道の精神”だったんじゃないかと思います。

4-2. 「復活する」と言い続けた強い信念

闘病中も、リング上でも、橋本さんの口から何度も聞かれたのが「絶対に復活する」という言葉。

医師から厳しい宣告を受けても、自分の体が限界に近づいていても、気持ちだけは折れなかった。

その強さに、多くの仲間たちが引き寄せられました。

誰よりも苦しい状況にいる本人が、「またリングに戻ってくる」と言い続けていたからこそ、まわりの人たちも前を向けたんだと思います。

4-3. 最後まで“プロレスで人を救いたい”と思っていた

橋本さんがプロレスを辞めなかったのは、「誰かの希望になれる」と信じていたから。

小さな団体でも、自分たちの試合を見に来てくれるお客さんがいて、そこで笑ったり泣いたりしてくれる。

そんな“日常にあるプロレス”を大切にしていた人でした。

「大丈夫!絶対に大丈夫!」という言葉をスローガンに掲げたチャリティ興行。

自分が病と闘っている最中でも、誰かの背中を押す言葉を残し続けていたこと。

その姿勢に、橋本友彦という人のすべてが表れていた気がします。

5. 橋本友彦が残した“プロレス哲学”とは何だったのか【編集部の考察】

橋本友彦さんが選んだ道は、決して華やかなキャリアではなかったかもしれません。

でも、プロレスという舞台を「生きる術」として選び抜き、貫いた人生には、確かな“哲学”がありました。

それは、勝ち負け以上に「誰かに届くプロレスをやる」という覚悟。自分が強くなることよりも、「誰かを育て、支えること」に価値を見出した在り方。

そして最後まで、プロレスで生き、プロレスで死ぬことを選んだ男の美学です。

5-1. スター選手より“育てる側”を選んだ理由

橋本さんが紫雷美央や紫雷イオ、西村賢吾(現:拳剛)といった選手を育てたことは、業界内でも広く知られています。

彼自身、KO-Dタッグ王座やWEWヘビー級などの実績もありながら、自分の名前を前面に出すタイプではありませんでした。

その代わり、若い才能を見つけ、リングの上で輝かせることに熱を注いでいたんです。

プロレスという世界で「目立つより、背中を押す人でありたい」と本気で思っていた、数少ない人だったのではないでしょうか。

5-2. 「プロレスで生きる」という覚悟と美学

2017年に設立したプロレスリングA-TEAMも、橋本さんの“生き方そのもの”でした。

たとえメディアの露出が少なくても、チケットが完売しなくても、地方の小さな会場でも。

彼は決して折れなかった。

プロレスで生きていくという意志だけは、何があっても揺るがなかった。

その姿勢は、選手たちにも、ファンにも、そして同業者たちにも強く伝わっていました。

だからこそ、あれだけ多くの人が、橋本さんの最後の試合を見届けに来たのだと思います。

5-3. 次世代レスラーが語る“橋本イズム”の継承

彼が手がけた選手たちの口から出る言葉に、何度も「感謝」と「誇り」という単語が出てくるのが印象的でした。

紫雷イオはWWEで、拳剛は国内インディーで、それぞれ橋本さんから学んだ“戦う姿勢”を武器に今もリングに立っています。

橋本イズムは、「強さとは何か」「プロレスラーとしてどうあるべきか」という問いに対して、きっと一つの答えを示していたんじゃないでしょうか。

リングに立つたびに、それを体現し続ける後輩たちがいる限り――橋本友彦という存在は、これからも生き続けていきます。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次