俳優・山田裕貴さんの父親であり、元プロ野球選手として活躍した山田和利さんが、2025年8月16日に逝去されました。
注目される彼の死因や闘病生活、そして親子の関係にあらためて関心が集まっています。
この記事では、
- 山田裕貴さんの父親・山田和利さんの死因と最期の日々
- プロ野球選手・コーチとしての経歴と功績
- 家族構成や、実家でのエピソード
- 父の生き様が山田裕貴さんに与えた影響
などを、事実をもとに丁寧に解説しています。親子の静かで深い絆、家族に支えられた俳優人生を、あたたかい視点から振り返ります。
1. 山田裕貴さんの父・山田和利さんが逝去|死因と最期の日々
プロ野球ファンにとっては、中日ドラゴンズや広島カープで活躍したあの“和利さん”と言えばピンとくる方も多いかもしれません。
長年野球界で愛され、コーチとしても信頼されてきた和利さんですが、その最期は静かで、そしてとても家族想いなものでした。
1-1. 死因は「がん」だった|4年間の闘病生活
実は、亡くなる約4年前から病と闘っていたんです。
がんの詳細な種類までは公表されていませんが、本人の意向もあり、病気のことはあえて伏せていたそうです。
これってすごく和利さんらしいというか、プロ野球時代から“寡黙な努力家”と呼ばれていた彼らしいな、と思ってしまいます。
自分の辛さよりも、周囲への配慮を優先する生き方──最後まで変わらなかったんですね。
1-2. 闘病は非公開、支え合った家族の存在
和利さんの闘病については、家族も含めて口外せず、そっと日々を重ねていたそうです。
中でも印象的だったのは、息子・裕貴さんがInstagramで語った言葉。
日常の中で、病気を知られないように振る舞い続けた父と、それを支えた家族。
絆の深さは、何気ない言葉の端々から滲み出てきます。
1-3. 裕貴さんが語った父への感謝の言葉とは
父の死後、山田裕貴さんが語った言葉は、実にまっすぐで、胸に迫るものでした。
「父がいたから、僕は頑張れた。大人になってやっと分かった」
プロ野球選手として活躍した父に、子どもの頃から尊敬と同時に“越えられない壁”のような存在を感じていた裕貴さん。
でも、俳優として自分の道を見つけたからこそ、父をひとりの人間として見つめられたのかもしれません。
2. 山田和利さんの人物像と経歴|プロ野球界で輝いた軌跡
引用元:中日スポーツ
ここで、改めて山田和利さんがどんな人だったのか、プロフィールを簡単にまとめてみましょう。
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 名前 | 山田 和利(やまだ かずとし) |
| 生年月日 | 1965年6月3日 |
| 没年月日 | 2025年8月26日(享年60歳) |
| 出身地 | 愛知県名古屋市中村区 |
| 身長/体重 | 178cm/82kg |
| 出身校 | 東邦高等学校 |
| 職業 | 元プロ野球選手・コーチ |
| 主な所属球団 | 中日ドラゴンズ(1984–1990, 1996)広島東洋カープ(1991–1995) |
| ポジション | 内野手(遊撃手・三塁手など)/一部外野手経験あり |
| 通算成績 | 出場試合数:366試合安打数:227本本塁打:22本打点:97 |
| コーチ歴 | 中日ドラゴンズ(1997〜2001)広島東洋カープ(2011、2015〜2021) |
| 家族構成 | 長男:山田裕貴(俳優)妻:山田菜実恵(一般人)長女:山田麻生(モデル・アート作家) |
では、それぞれのキャリアを振り返ってみます。
2-1. 中日ドラゴンズでのプロ入りと活躍
和利さんがプロ入りを果たしたのは1983年。
東邦高校から、ドラフト4位で中日ドラゴンズに指名されました。
1984年に入団し、内野手──特に遊撃手として活躍しました。
1988年には82試合に出場し、当時のスター立浪和義選手の控えとして重要な役割を果たしていました。
この年、津田恒実投手(当時・広島)から放ったプロ初のサヨナラ打は、ファンの間でも語り草です。
プレーヤーとしての数字以上に、「いぶし銀」「堅実」と称されるそのプレースタイルは、チームメイトにもファンにも愛された存在でした。
2-2. 広島カープでの飛躍と記録
1991年、トレードで広島東洋カープへ移籍。
ここから和利さんのキャリアは、もう一段階ステップアップします。
1992年には82試合、1994年には94試合に出場。
1995年にはついにキャリアハイを記録──12本塁打、53打点と、打撃面でも目覚ましい活躍を見せました。
この年、カープはリーグ2位に躍進。和利さんの“渋くて頼れる”バッティングとユーティリティな守備力が、チームにとってどれだけ貴重だったかがよくわかりますよね。
2-3. 引退後は名コーチとして後進を指導
現役引退は1996年。
ケガの影響もあり、中日へ復帰後は1軍出場が叶わず、静かに現役生活に幕を下ろしました。
通算出場試合数は366試合、安打数は227本、本塁打は22本。
でも、和利さんの“第2章”はここから始まります。
引退翌年の1997年から、中日ドラゴンズでコーチ業をスタート。
1998〜2001年には1軍打撃コーチも務めました。
その後、2011年と2015〜2021年には広島カープに戻り、2軍の守備走塁コーチなども歴任。
2021年にコーチ業も引退し、その後は完全に野球界から距離を置く生活へ。
息子・裕貴さんの活動を見守る“応援隊長”のような存在になっていきました。
3. 父と息子の知られざる絆|山田裕貴と父・和利の関係性
山田裕貴さんが俳優として成功するまでの背景には、父・山田和利さんとの静かで深い絆がありました。
プロ野球という華やかな世界を生きた父と、その背中を追いかけた息子。
少年時代から現在に至るまで、ふたりの関係には変化がありつつも、どこか一貫して“尊敬と憧れ”が流れていました。
3-1. 幼少期は憧れ、思春期に距離、そして再接近
裕貴さんが野球を始めたのは小学3年生の頃。きっかけはもちろん、父・和利さんの存在です。
「父のようになりたい」と心から思っていた少年時代。
プロ野球選手というキラキラした職業に対して、純粋な憧れを持っていたそうです。
中学卒業までの間、真剣に野球に打ち込んできた裕貴さんですが、成長するにつれて次第に「父を超えることは難しい」と気づき、高校進学を機にバレーボールへと競技を変えました。
この選択には、単にスポーツの枠を超えた“自分の道を見つけたい”という決意があったように感じます。
そこから俳優の道へ進むわけですが、父はその決断に口出しせず、むしろ黙って背中を押してくれたのだとか。
距離を取りながらも、静かに見守る父親の姿が浮かびます。
3-2. 始球式で着た「背番号30」に込められた想い
2018年、山田裕貴さんがナゴヤドームの始球式に登場した際、背番号は「30」。
これは、現役時代の父・山田和利さんの背番号です。
当日、裕貴さんが着ていたユニフォームの背中には「YAMADA」の文字とともに「30」が刻まれていました。
観客からは大きな拍手が送られましたが、裕貴さんの心の中ではきっと、“父との和解”や“感謝”が静かに芽生えていたのではないでしょうか。
自分が育った球場で、父の背番号を背負って投げるボール──それは俳優として活躍する現在の自分と、野球少年だった過去の自分、そしてプロとして生きた父との繋がりを感じさせる、象徴的な出来事でした。
3-3. 父からの“無言の愛”と、裕貴さんの成長
和利さんは、家族の間では「褒めない父」として知られていたそうです。
決して感情を露わにせず、喜びや応援も“言葉にしない”スタイル。
それでも裕貴さんは、自分が出演したドラマや映画を必ずチェックしてくれる父の存在から、確かな愛を感じ取っていたと語っています。
一緒に観戦した神宮球場での父子の時間、初めて一緒に飲みに行った夜、そして亡くなる直前まで続いた無言のエール──。
裕貴さんはそんな父の生き方から、“支えるということ”の意味を学んだのかもしれません。
そして今、自らが家庭を持ち、仕事に打ち込む中で、父が残してくれた生き様をしっかりと受け継いでいるように思います。
4. 山田裕貴さんの家族構成|父・母・妹・妻とのつながり
山田裕貴さんの家族は、それぞれが強い個性と温かさを持った人たちで構成されています。
彼の人柄や生き方を形作ってきた、大切な存在たちです。
| 家族構成 | 名前/特徴 |
|---|---|
| 父 | 山田 和利(元プロ野球選手・コーチ、2025年逝去) |
| 母 | 山田 菜実恵(天然キャラで家族の癒やし) |
| 妹 | 山田 麻生(モデル・アート作家、兄を芸能界へ導く) |
| 妻 | 西野 七瀬(元乃木坂46、2024年結婚) |
それぞれの関係性やエピソードを見ていきましょう。
4-1. 天然キャラの母・山田菜実恵さんとのやり取り
母・菜実恵さんは、和利さんと同じ東邦高校の同級生。
美人で天然な性格が魅力で、ファンの間でも“優しいお母さん”として知られています。
特に面白いのが、裕貴さんが出演するドラマの感想を送ってくるLINEのエピソード。
誤字や勘違いが満載で、「パルム(アイス)」を「プラム」と間違えてしまったり、感想の内容が本編と全然違ったりするんです。
でも、そんなメッセージにこそ愛情が詰まっていて、裕貴さんも笑いながら「母らしい」と語っています。
2024年には「山田裕貴のオールナイトニッポン」に家族全員でゲスト出演し、そのユニークなキャラクターが多くのリスナーを癒しました。
4-2. 芸能界に導いた妹・山田麻生さんの存在
妹・麻生さんは1993年生まれ。身長173cmのモデル体型で、アート活動やモデル業を行っている多才な女性です。
彼女がいなければ、山田裕貴という俳優は誕生していなかったかもしれません。
というのも、裕貴さんが芸能界に入るきっかけとなったオーディションを勧めたのが、麻生さんだったからです。
2人は非常に仲が良く、麻生さんは今でも兄を「裕くん」と呼んでいます。
過去には「情熱大陸」や「A-Studio+」にも一緒に登場し、兄妹の信頼関係が多くの視聴者の心を温かくしました。
4-3. 妻・西野七瀬さんとの結婚と家族への思い
2024年3月、山田裕貴さんは女優・西野七瀬さんと結婚。
出会いはドラマ『ハコヅメ〜たたかう!交番女子〜』での共演。
その後、共通の趣味だった「モンスターハンター」などのオンラインゲームを通じて仲を深めたそうです。
公私ともに落ち着いた裕貴さんは、家庭を持ったことでさらに演技に深みが出たとも言われています。
現時点で子どもに関する情報は公開されていませんが、裕貴さんならきっと、父・和利さんのように静かで力強い“無言の応援者”になるのではと期待されています。
5. 実家に残る“山田裕貴ミュージアム”|家族の応援スタイル
引用元:https://www.kk-bestsellers.com
名古屋市にある山田裕貴さんの実家には、ちょっとした“名物空間”があります。
それが、ご両親が大切に飾っている「山田裕貴コーナー」。
ドラマや映画のポスター、出演雑誌、グッズが所狭しと並び、まるで小さなミュージアムのような雰囲気です。
ご本人も「実家が自分の資料館みたいになってる」と笑いながら話していたことがありますが、それは単なる“親バカ”というよりも、家族の応援の形が見える温かい光景なのかもしれません。
5-1. 雑誌・グッズが並ぶ実家の一室
山田家のリビングや個室の一角には、裕貴さんの活躍を記録するように飾られたアイテムが並びます。
主演映画のパンフレット、雑誌の切り抜き、舞台のチケット──それらが一枚一枚丁寧に保管され、壁や棚を飾っているのです。
特に父・和利さんは、毎回出演作を欠かさずチェックし、テレビの前で見守っていたと言います。
大きなリアクションはなかったそうですが、「HIGH&LOW」を見ては、「いいじゃん、でもあそこはもう少しこうした方がいい」とプロ野球コーチのような“分析目線”で感想を述べていたとか。
母・菜実恵さんもまた、出演作を録画・再生・応援メッセージの送信までフルコースでサポート。
天然な誤字LINEがそのたびに届くのも恒例となっていました。
5-2. 家族で出演した「オールナイトニッポン」秘話
2024年8月、ニッポン放送の「山田裕貴のオールナイトニッポン」では、なんと家族4人がそろってゲスト出演しました。
ラジオ番組に家族で登場するというのは、芸能人であってもなかなか珍しいこと。
この日は、父・和利さん、母・菜実恵さん、妹・麻生さんが全員でマイクの前に立ち、それぞれが“裕貴との思い出”を語るという構成でした。
特に印象的だったのは、妹・麻生さんが「兄の活躍を見るたび、自分も頑張らなきゃって思える」と涙ぐみながら話した場面。
そして和利さんは、普段は見せない柔らかな口調で「本当に頑張ってると思うよ」とぽつり。
その言葉は、ラジオの電波を通じて全国に届いた“父からの賛辞”でした。
6. 独自考察|父の生き様が山田裕貴の俳優人生に与えた影響
山田裕貴さんがなぜこれほどまでに“人の心を動かす演技”ができるのか──
その背景には、父・山田和利さんの生き方が深く関わっているように感じます。
裕貴さんの歩みは、決して順風満帆ではなく、むしろ葛藤と挑戦の連続でした。
しかし、その“ブレなさ”の奥には、父が見せてくれた背中があったのではないでしょうか。
6-1. 野球を辞めて俳優へ──父を超える道を選んだ理由
小中学生の頃に真剣に野球へ取り組んでいた裕貴さんですが、高校ではその道を離れます。
その理由には「父のようなプロにはなれない」という冷静な自己分析がありました。
これは単なる挫折ではなく、“父を越えるためには違うステージに立たなければならない”という選択だったように思えます。
その後、妹の麻生さんに背中を押され、俳優オーディションを受けることに。
テレビに映る父の姿に憧れた少年は、自らスクリーンの中で輝く道を選びました。
俳優という不安定な世界で、これほどまっすぐ突き進めたのは、プロ野球という厳しい世界で闘い抜いた父の姿があったからこそ。
自分を信じる強さも、静かに耐える芯の強さも、父から受け継いだものかもしれません。
6-2. 「褒めない父」が遺した最大の賛辞とは
和利さんは、生前あまり息子を褒めることがなかったといいます。
どれだけ大きな仕事をしても、「よかったじゃん」と一言言うくらい。
でもそれが、彼なりの愛情表現だったのは明らかです。
亡くなる直前まで、テレビの前で裕貴さんの出演作をチェックし、録画して、メモまで取りながら見ていたとも伝えられています。
表には出さないけれど、ずっと応援していた。まさに“無言の拍手”です。
その静かなスタンスは、まるで野球のコーチが選手を信じてベンチから見守るような姿勢に近いものがありました。
和利さんが遺してくれた「最大の賛辞」は、言葉ではなく、そのまなざしと行動だったのかもしれません。
7. まとめ|山田裕貴さんの原点は“家族愛”にあった
山田裕貴さんという俳優を支えてきたのは、まぎれもなく家族の存在でした。
プロ野球選手として一時代を築いた父・山田和利さん、天然で優しい母・菜実恵さん、芸能界のきっかけを作った妹・麻生さん、そして伴走者として新たに加わった妻・西野七瀬さん。
ひとりひとりの想いや関わりが、裕貴さんの原動力となり、演技や言葉、佇まいにまで影響を与えています。
父の死という大きな出来事を経て、今なお俳優として成長を続ける山田裕貴さん。
その根底には、強くてあたたかい“家族の絆”が、しっかりと息づいています。
これからもその歩みに注目しながら、山田家の物語が、静かに、でも確かに続いていくことを願いたくなります。

